前夜、椎葉という秘境の本当の恐ろしさを感じた我々は朝9時にゆったり起床し、ランチの準備をします。
九州の激安スーパーの定番であるトライアルで購入した99円のカサカサ食パンにガーリックバターを全力で絞り出していると、昨夜一緒に飲んだ釣り人2人がバタバタと準備をしています。
彼らは「朝6時起きで釣りに行く」と言っていたのに、どうやら寝坊したようです。うち一人は昼前には椎葉を出て可愛い可愛い我が子を保育園に迎えに行く必要があるそうで、わずか2日だけの椎葉のラスト数時間をゆっくり睡眠に充ててしまったということです。
こちらはむしろ持て余し気味の時間を見せつけるように、飲めないコーヒーを燻らせながら見送ります。
釣りなんて、そんなムキになるものじゃないんですよ。
どうせ大した魚は釣れないんですから。
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椎葉の不思議現象の一つは、他地域からの距離が遠く宿泊施設が少ないにも関わらず、釣り場で圧倒的な数の県外ナンバー車を見かけることです。突然宇宙から降りてきたかのように釣り車が入渓ポイントで前のめりで佇んでいる光景は毎度目を疑います。
さらに椎葉はマップで見れば釣りが出来そうなところは無限にあるのに、現場に行ってみると実際に川に降りられるポイントがほとんど無く、入渓ポイントに困って同じ細道を何度も往復している釣り車を見かけることがあり、この日は我々がまさにその罠にハマってしまいました。
※ポイント探しで時間をロスしたくない方のために、椎葉の入渓ポイント8つを有料記事として作成しました
水槽の同じ道を何度も泳ぎ回るアシカのように道をなぞり倒し、ようやくたどり着いた何の変哲もないポイントから川に入ります。
多くの人から叩かれた河川であろうと、椎葉なら
「何か起きるかも」
という予感がしてきます。
一投目、毛針を落としてみたところ、形の良いヤマメがすっと動くのが見えました。
この魚は食い気がありそうだから狙ってみようと竿を動かすと、既にその魚が毛針をくわえていた様子で、一投目で釣れました。
神経質なヤマメは毛針を口に入れた瞬間に放してしまうことも多いですが、この魚はなんとトライアルの食パンより不味いタワシのような毛針をガーリックバター無しで口に入れて自宅に戻り、尚モグモグやってくれていたようです。
サイズも色づき方も中途半端かもしれませんが、私にとっては格好良い、椎葉らしい魚が釣れたので満足です。
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珍しく同行者よりも私が先に魚を釣りあげたのでポイントを同行者にこれ見よがしに譲ってやると、その後友人も綺麗なヤマメを釣っていました。
満足気に友人が撮影している魚にそっと手をパーにして当てて
「勝ったな」とつぶやいて去ります。
こんなみみっちい魚で満足している貴様はとてもみみっちいぞ、ということをほのめかしつつニヤリと去る私がみみっちくない可能性はあるのでしょうか。
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釣りを再開してみると、昼食前とは魚の反応が明らかに違っています。
ヤマメの中でもどうやら大きなサイズの魚の反応が良くなる時間帯が訪れていたようで、ポイントというポイントで必ず20センチを越える太いヤマメが飛び出してきてくれます。うまく針掛かりはしていませんが、チャンスは今しか有りません。
私もヤマメ同様スイッチが入ってきました。
同行者の前に立ち「俺に釣らせてくれ」と背中に語らせながらと先に行かせてもらうも、ヤマメは毛針を食っているのか食っていないのか、全く針にかかりません。
どうか皆様、そう神経質にならず、先ほど釣れたヤマメさんを見習って無防備に毛針をしばらくモグモグしてくれないでしょうか。
水中にカメラを沈めると大量にヤマメが映っており、ルアーに食いつく瞬間が見られました。
映像で見ると完全にルアーに食いついていますが、同行者はその感触を得られなかったとのこと。こんな風にルアーが沈む一瞬で魚が下から食い上げる場合、気付くことが出来ず
「魚おらんなぁ」
などとバカなことを言っているのでしょう。
夕暮れも近くなった頃、同行者を振り返ると立派なヤマメを釣りあげていました。
・・・。
先行する私ではなく、不利な条件である同行者に釣られてしまうとは・・・。
細かく分析すれば私より彼の方が大きな魚を釣ったと見ることも出来ますが、しかし、主語を「種」に置き換えれば私も彼も同じホモ・サピエンス。
どちらが釣ったかなど些末な議論であり、椎葉の川の素晴らしさを共に手を取り合って証明したと言えるでしょう。宇宙船地球号の同じ乗組員が船内で争っていては、眼の前の敵を船から放り投げたとしても、次に海の藻屑になるのは自分でしょう。
少し目線を変えるだけで人生は椎葉で磨かれた水のように透明で美しく、結果として世界平和が達成されるのです。
・・・ということで今回だけは勘弁してやるが、次回は絶対俺がデカいの釣ってやるからな。
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夕食は椎葉の方がツマミを持って遊びに来てくれました。
この地区の宿の料理はいわゆる「山の料理」が中心です。豆腐の田楽、こんにゃく、しいたけに代表されるように全体的に茶色く、旅を楽しんでいる自分に酔いたい人たちに必須の写真映え要素は皆無で、その視点でいえば土や雲でも撮影するのと差はありません。
しかし地味を極めた料理の味の滋味はどれもすさまじく、全身の細胞の染色体がその遥かなルーツを思い出して身震いするような美味さがあり、やれミシュランだのやれガストロノミーだのと東京カレンダー的自称グルメが崇めている記号的贅沢とは別次元の体験を与えてくれます。
などと偉そうに言いながら、赤ちょうちんの店で同じ料理が出てきたら何の感動も無く瓶ビールで流し込んでしまうのでしょう。
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椎葉での楽しい時間を振り返りながら福岡方面に車を走らせていると、道路が封鎖されていることを示す看板が立っています。
さらにその横に、「宵越しの銭を持ったことがありません」という風体のガン黒おじさんに確認してみると、椎葉おなじみの時間帰省にひっかかってしまったようで、これから1.5時間待機しなければいけないようです。
・・・。
外気温は30度を越えていますが、給油所が近くに無い環境下でガソリンの残りも少なくなっており、クーラー無しで車内で過ごせばすぐに干からびそうです。
コンビニも店も無いこんな状態の山奥でどう時間を潰せば良いのか・・・。
道路の横には川が流れていますが、護岸がされているので川には降りられません。とりあえず日陰に居ようかと車から出てみると、偶然にも川に降りられる階段のようなものがあります。
90分間虚空を見つめるしか無いかと思われましたが、僕達には釣りという優雅な趣味がありました。
釣り竿で魚を釣るのは苦手ですが、時間を潰すことには長けています。
外は少し雨が降り出して、川も濁り気味です。大きなヤマメでも飛び出してくるのでは・・・と内心ドキドキしながらルアーを投げてみますが何の反応もありません。
雨で湿度も高く、透湿機能をダメにしてしまったレインウェアに包まれた私はセルフサウナ状態です。結局雨と汗でびしょびしょになっただけで90分時間を潰すことも出来ずに車に戻ります。
先ほどは「神の恵み」とまで崇めた川と道路をつなぐ大階段も、ただの障害物でしかありません。
段差が非常に高く、慎重4メートルの巨人を想定した階段のようです。
ほうほうの体で車に戻ってみると、我々の車を先頭にして10台ほどが並んでいました。
時間規制に引っかかった時は「90分間待機せよ」と言っていた交通整理の人も、この期に及んで「設定時間よりちょっと早く門を空けることが多いから、早く出発準備するように」と急かしてきます。
親切なのか迷惑なのか・・・二枚舌・・・恨みながらも「ガオー!!!」と叫ぶことは何とかこらえ、椎葉の集落のように美しく濁った川を後にしました。