大分県の竹田市を流れるの緒方川水系の一部に、パーマークの無いヤマメである「イワメ」という珍しい魚が居るのだそうです。
下の写真の二匹の上側がイワメです。
アマゴやヤマメと種類が異なる魚というわけではなく、この地域のアマゴ同士の劣性遺伝として模様無しのアマゴである「イワメ」が出現し、大分以外に愛媛、三重、岐阜、神奈川、群馬でも見つかっているのだとか。
大分の竹田では、イワメを保護するために禁漁域が設けられているので、釣り可能なギリギリを探ってみます。
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神原川
イワメがどの程度の頻度で現れるのか不明ですが、今回私はこれを釣るために大阪から大分まではるばる来ました。もし釣れなかったとしても、水中カメラでその姿を必ず見てやりたいと思います。
今回は学生時代からの友人である武藤くんと釣りをします。武藤くんは一見平和主義のハトのような男ですが、気を許した相手にはハトを食い散らす荒鷲へと変貌する人(代表的な事例はこちら)で、うっかり優しくしているといつの間にかこちらがハトとして食われてしまうことになります。
彼は自分が魚を釣った日はだんじり祭り、同行者だけが釣れるとお通夜になるという、まっすぐな幼稚園生のような存在なので、雰囲気を悪くしないために彼に先に釣果を得てもらう配慮が必要になります。
二手に分かれて釣りをしていると、彼から30分も経たないうちにLINEで「アマゴが釣れた」という連絡が入りました。
ひとまず武藤の荒鷲化は防ぐことが出来たことを確認し、ホッとして竿を出していると、またもアマゴが釣れたという連絡が入りました。
「天才やな」
などと、思っても居ない言葉を絞り出しましたが、徐々に私の中に潜む横暴な鷲が騒ぎ始めます。わざわざ大分まで来て、私だけボウズでは本日の夕食と同時に彼の内蔵を食い荒らしてしまうかもしれません。
この時期は日が暮れるも早いのであまり長時間釣りをする時間がありません。また、どうやら膀胱炎を患っているようで、長く川に浸かるのは下半身を冷やしてこれを悪化させることにつながるので、釣りを夕暮れまで長引かせることも避けたい状態です。
当初はイワメを釣るか、もしくは少なくとも撮影したいと思っていたのが嘘のように、3時間ほどボウズが続いた時点で私は
「何でも良いから鱒らしき魚を釣れれば良い」
にまで下方修正されていました。大分まで来るに要した資金や時間などどこかに消えてしまい、ただ魚のブルっとした感触を得ることにムキになっていきます。
先程までの私はイワメに価値があると考えていましたが、そもそも価値があると考えるのは一体誰の目線なのでしょうか?もし釣れたのがイワメで無く普通のアマゴであった場合に、どうしてがっかりする必要があるのでしょうか?
自分が幸せと感じるために、一度外部の評価をくぐらなければならないとすれば、それは誰かに誘導された疑似の幸せでしょう。
「意味が無いから楽しく無いのではなく、楽しく無いから意味を探しているだけだ」とどこかの哲学者が言っていましたが、純粋な楽しさはイワメとは関係が無いはず。
といういつもの論理(屁理屈)をいっしょうけんめい導き出し、イワメを探すことにこだわらずとりあえず魚を釣ることに目標を切り替えました。すると魚もそれを見越してくれたのか、毛針に食いついてくれました。
のべ竿に短い糸と毛針を結んだだけのチョウチン毛針で釣れたアマゴは20センチも無いくらいだと思いますが、私にとっては魚拓にしたいくらいの大物です。
既に渓流釣りを始めてから15年になろうとしていますが、1匹釣れたら大満足の釣りブロガーです。
この趣有る民宿「清流」は当日満室だったので、我々はやむなく別の山奥に有る宿に宿泊することになりました。この時点では「目の前にあるこの宿に泊まれたら楽なのに」と思っていましたが、我々はこれから山奥で驚くべき宿に出会うことになります。
サリモスに宿泊
グーグルマップの案内に従って宿へのルートを車で進みますが、グーグルが道案内を間違えているのではと何度も疑わざるを得ないほど道は狭く、荒れています。
ある程度山道を車で進むことには慣れているはずの我々も驚くほどの酷道で、この先に宿はおろか民家すらあるのか怪しむほどです。
不安になりながら薄暗い道路を進むと、どうにか宿らしき建物が現れました。
ひと気の無い山奥にある宿ですから、設備面は期待出来ないでしょう。中身はボロボロの廃屋寸前で、もしかするとトイレも昭和スタイルかもしれません。
しかし中をのぞいてみると、我々の目に飛び込んできたのは高級宿と呼ぶに相応しいどっしりとした風格のある空間でした。
例えるなら萎びた昆布のような女友達が企画した期待出来ない合コンで、つぼ八の6人席にオードリー・ヘップバーンが鎮座していたという感じでしょうか。
建ててから18年が経過したヘップバーンとは思えない綺麗さと、空間の厳密さです。
空間づくりにはオーナーの人としての在り方が反映されていると言えると思いますが、その点で言えば完璧に近い料理が出てくることは、食卓に座る前からわかります。
ほら、出てきました。これは夕食の前菜で、ここからメインと呼べる料理がいくつか登場しました。
たけのこや他の山菜(名前を失念)は「そのへんから取ってきたもの」だそうで、野菜も含めてほとんどが自家製なのだそうです。では見た目と無機農法であることだけが強みなのかというとそんなわけはなく、その上品な味わいは「母親に食べさせてあげたいな」と思わせてくれるクオリティでした。
これに豪勢な朝ごはんが付いて7,000円という価格設定は、狂っているとしか言いようが無いと思います(サリモス公式サイト)。
竹田の歴史
竹田は兵庫の天空の城「竹田城」が由来
ちなみになぜこれほどの山奥にまで民家があり、田んぼがあるのかというと、古くは豊臣政権下の1600年頃に遡ります。岡城の城下町として栄えたのが大分の竹田ですが、竹田という言葉の由来は天空の城として知られる兵庫県の竹田から来ているそうです。
時に文禄元年(1592)、現在の兵庫県にあたる播磨の三木城主だった中川秀政は朝鮮出兵で活躍しましたが、戦争が膠着したタイミングで暇つぶしに(諸説あり)狩りをしていたところ、うっかり現地の敵兵に打たれて戦死してしまいます。現代の戦争で言えば、銃撃戦が落ち着いたタイミングで(休戦中では無い)ポケモンGOで戦っていたら、生身の自分を敵に狩られてしまった、という感じでしょうか。
戦ではなく遊びで無駄死にしたことに秀吉は激怒し、家督相続人である弟の秀成を三木城12万石から豊後岡城7万4千石へと転封したことで、兵庫の竹田城がある三木から4,000人もの人が、はるばるこの山奥に移住してきたのだそうです。
優秀な殿様が収穫40%増を達成
田舎へ飛ばされたことで中川家もこのまま衰退していくかに思われましたが、横死してしまった秀政の孫にあたる久清の慧眼はあることを見抜きます。
「岡藩は7万石のポテンシャルやない」
そう見抜いた彼は、農業土木の第一人者でもあった熊沢蕃山にも協力を仰ぎながら農業用水を山奥にも巡らせて田畑を広げて行き、10万石にまで収量を増やしました。その結果として現在でも標高500m地点でも平気で感慨設備と田んぼが広がるという、空調映像で見ると「マチュピチュのような」景観が残されているのです。
しかし2023年現在、これらの用水路を維持することが遂に難しくなっており、多くの農家がこの「改良区」と呼ばれる組合から脱退するために、脱退のルールである10年分の費用を納め始めており、サリモスのオーナーさんいわく
「400年間維持してきたこの暮らしも、あと10年も経てばなくなるでしょう」とのことでした。感情の問題としてはこのような景観や暮らしを守っていきたいと私も思いますが、そのために道路維持や災害時の救出含めて多くの税金を投じなければならないことを考えると、10年先には集団移住という選択肢も十分考えないといけないのかもしれません。
そして我が身を振り返ればこちらは膀胱炎、隣にいる同級生の友人は耳鳴りで病院に行くも「老化です」で終わらされたのだとか。大学を出てから15年が経過し、人生の下り坂をゆっくりと転がり始めた僕らが味わうのに良い宿でした。
翌日は漁協が管轄していない河川でヤマメ・アマゴを狙いました。
【竿】ダイワリバティクラブ 5.3メートル
実売価格は5,000円~8,000円程度です。安いですが全く問題なく使えます。
【ライン】実売400円の安いライン0.8号
【毛針】サイズは14番くらいを使っています
チョウチン毛針釣りの方法と道具についてはこちらでまとめています。
チョウチン毛針釣りは簡単な道具と動作で楽しめるので、ルアー、フライ、テンカラなどで行き詰まった私のような釣り人にもってこいの方法です。